第0章 イントロダクション

 

 

まずは、論を始めるにあたって必要な、「ベーシックインカムの定義」や「この文章が目的としていること」を説明する。

0.1 まずは「ベーシックインカム」を定義する

本論では、日本でベーシックインカムを実現するために、何をすればいいのかを論じる。

「ベーシックインカム」の辞書的な定義は、「政府が全国民に対して定期的かつ無条件に、最低限の生活を送るのに必要な現金を個人単位に支給する制度(大辞林)」となる。

ただ、この定義における「最低限の生活を送るのに必要な現金」は、人や社会によって異なる。ここでは、論を進めるにあたって、もう少し言葉を厳密に定義したい。

「ベーシックインカム」……全国民に無差別・無条件で同額の現金を支給する制度

本論では、上の定義で「ベーシックインカム」という言葉を使うことにする。(なお以降では省略のために「BI」と表記する。)

この定義の場合、まず、「年収○○円以下の人のみ」「年齢○○歳以下の人のみ」など、支給される人とされない人がいたり、人によって支給額が異なるものは、「BI」ではないことになる。

また、辞書的な定義における「最低限の生活を送るのに必要な現金」を、本論における「BI」の定義からは外している。そのため、極端な例だが、「全国民に月額1円を支給」する場合であっても、「無差別・無条件で同額の現金を支給」に当てはまるので、「BI」の定義を満たすことになる。

本論の意図は、「最低限の生活」が誰しもに保障されるような状態を「BI」によって目指そうとするものだ。ただ、これから論を進める上での「BI」の定義としては、「最低限の生活を送るのに必要」のような曖昧さを含めないようにする。

 

0.2 人によって「BI」から思い浮かべるものが大きく異なる

「BI」を「全国民に無差別・無条件で同額の現金を支給」と定義したとしても、「BI」のイメージが一意に定まるわけではない。

例えば、以下のような要素の組み合わせによって、各人が思い描く「BI」のイメージが、多種多様なものになりうる。

  • 「社会保障との兼ね合い」(他の福祉をどうするか?)
  • 「支出可能な根拠」(なぜBIを配ることが可能か?)
  • 「支給する額面」(どれくらいの金額を配るか?)

例えば

  • 「支出可能な根拠」として「既存の社会保障」を削減して、「支給する額面」を少なくすれば、「BI」は「自由主義的」な方針の政策になる。
  • 「既存の社会保障」をそのままに、「支給する額面」を多くして、「支出可能な根拠」として増税をすれば、「BI」は「福祉国家的」な方針の政策になる。
  • 「支給する額面」を多くして、「支出可能な根拠」として財政規律を無視した政府支出に踏み切れば、「BI」は「国家主義的」な方針の政策になる。(※詳しくは本編で説明)

など、同じ「BI」という言葉と定義からでも、各人の思い浮かべる政策がまったく異なったものになってしまう。

人によってイメージする「BI」が異なるのであれば、一概に賛成か反対かを聞いても、そもそもの前提が食い違っている場合がある。そのため、単に言葉を定義するだけではなく、もう少し「どのようなBIか?」のイメージを固める必要がある。

本論で想定している「BI」のイメージは、以下のようなものだ。

  • 「社会保障との兼ね合い」→既存の社会保障から「独立」させる
  • 「支出可能な根拠」→すでに余剰があるから配るのではなく、これから余剰を増やしていくための方法として貨幣を配る
  • 「支給する額面」→支出する額面を「目標」と考え、少しずつ増やしていくことを目指す

これについては、「BI」を「全国民に無差別・無条件で同額の現金を支給する制度」とした定義から演繹的に考えると、このようなやり方になりやすいと主張したい。以下で理由を説明していく。

 

0.3 社会保障からBIを「独立」させる

国家が国民に現金を支給する制度としては、すでに既存の社会保障制度が存在する。そのため、「社会保障との兼ね合いをどうするか?」は、「BI」において避けられない問題になる。

そのとき、「BI」を、既存の社会保障から「独立」したものと考える。これは、独立変数と従属変数の関係における「独立」の意味で、噛み砕いて言うと以下のようになる。

  • 「BI」は、社会保障の影響を受けない(独立)
  • 社会保障は、「BI」の影響を受ける(従属)

社会保障制度は、各人の「個別の事情」によって支給額が異なる。ここで留意する必要があるのは、「個別の事情」については、常にその分配の正当性をめぐる政治的な議論がセットになっていることだ。

分配をめぐる政治的な議論は、人によって異なる事情を加味しなければならないので、必然的に複雑なものになる。それに対して「BI」という政策は、その性質上、個別の事情を考慮せずに「全員が同じ」であることに意味がある。

ゆえに、「BI」は、個別の事情を加味する議論の内側に含めるのではなく、そこから切り離されている必要がある。

「BI」を「全国民に無差別・無条件で同額」と定義する以上は、個人の弱者性を考慮する議論から切り離さざるをえず、それを、「BI」を既存の社会保障から「独立」させると考える。

「BI」が「独立」というのは、個人の給付を決定する際のプロセスにおいて、「BI」を社会保障の上流に置くことを意味する。つまり、社会保障は「BI」の影響を受けるが、「BI」は社会保障の影響を受けない。

念の為に言うと、「従属」であることにネガティブな意味はない。社会保障の必要性を疑おうとしているわけではなく、単にそれぞれの性質上、「BI」を「独立」、社会保障を「従属」として、個人の給付額を決める必要がある。

具体的な例として、「生活保護とBIとの重複によって、公平性に疑問が生じた場合」を考える。これに対して、「生活保護を受給している人にもBIが与えられるのは不公平ではないか?」と指摘するのは、「BI」を「独立」とせず、社会保障に「従属」するものと考えてしまっている。

BIを「独立」とするなら、「全員に同額のBIが与えられるのは前提」であり、その上で、生活保護の妥当な金額について議論することになる。もし不公平が問題になるのなら、「BI」は変化させず、社会保障の額面ほうで調整する。

「BI」の支給条件や支給額を個別の事情によって変化させてしまうと、「全国民に無差別・無条件で同額」という定義が破綻する。そのため、社会保障との兼ね合いで問題が生じたときは、「BI」の側を固定して、社会保障のほうを変化させなければならない。

 

0.4 BIと社会保障は目的が異なる

「BI」と社会保障は、「国家が国民に対して貨幣を支出する」という形式は同じでも、「目的が異なる」とここでは考える。

ここでは、「実質的な平等」と「形式的な平等」という言葉を使い、社会保障は「実質的な平等」を目指し、「BI」は「形式的な平等」を目指す、という見方をする。(このような考え方について、詳細は本編で解説する。)

  • 社会保障:「実質的な平等」を目指す
  • BI   :「形式的な平等」を目指す

「実質的な平等」を目的とする社会保障は、個別の事情を加味しようとする。特定の弱者性を抱えている人がいる以上、ただ形式的に全員に同じ額面を支給をしても、平等が達成されるわけではないからだ。

一方で、「BI」を「全国民に無差別・無条件で同額」と定義する以上、それは個別の事情を加味しないことを意味するので、「実質的な平等」にはなりえない。意図的に「形式的な平等」を目指そうとする「BI」は、「実質的には不平等」と言わざるをえない。

つまり、「BI」を「実質的な平等」を目指すためのものと考えると、採用する正当性がなくなってしまう。

では、「BI」のような「形式的な平等」を目指す政策にどのような意味があるというと、それは「生産のための方法」としてだ。

詳しくは本編で解説していくが、「実質的な平等」を目指す社会保障を、すでに存在する余剰を公平に分配するための「分配の方法」とするならば、一方の、「形式的な平等」を目指す「BI」は、分配するもとになる余剰を増やしていくための「生産の方法」になる。

  • 社会保障:分配の方法(すでにある余剰を公平に分配しようとする)
  • BI   :生産の方法(これから余剰を増やしていこうとする)

「BI」を、「実質的な平等」を目指す「分配の方法」と考えてしまうと、ただ何の区別もせず全員に同額を配るだけであり、当然ながら公平を達成する手段として正当性のあるものにはならない。

「BI」は、すでにある余剰を分配するための優れた方法ではなく、これから余剰を増やしていくための方法、つまり「生産の方法」として意味のある政策だと、ここでは考える。

「BI」の目的は「分配」ではなく「生産」にあり、それゆえに、国家が国民に貨幣を支給するという点においてはどちらも同じ形式ではあるものの、社会保障と「BI」は切り離して考える必要がある。

 

0.5 「分配の方法」ではなく「生産の方法」と考える

上述した通り、ここでは、「BI」を「分配の方法」ではなく「生産の方法」と考える。

そのように考えると、「今よりも優れた分配の方法としてBIを採用するべき」や「余剰があるからBIを配ることができる」といった「分配の方法」として提唱されても、「BI」は説得力を持たないことになる。

「BI」を「分配の方法」としたとき、分配可能な何らかの余剰(財源)がある状態を想定することになるが、社会保障において、余剰を誰にどれだけ支出するかは、分配をめぐる議論の渦中にあり、常にリソースを奪い合っている状態と言える。そんななかで、弱者性が認められる者ではなく、特に弱者ではない人も含めた全員に「無差別・無条件」に分配しようとする「BI」は、「優れた分配の方法」としては正当性を勝ち取りにくい。

先に述べたように、「BI」は「形式的な平等」であり、「実質的には不平等」になる。分配をめぐる政治的な議論において、「なぜ困っている人を差し置いて、区別なく全員に同額を配るのか?」という反対意見を否定するのは難しく、「BI」を「分配の方法」としてしまうと、実現性や正当性に困難が生じる。

ここでは、「BI」を「分配の方法」とは考えず、今はまだ存在しない余剰をこれから生み出してこうとするための「生産の方法」と考える。「すでに余剰があるから貨幣を配ることができる」ではなく、「これから余剰を生み出してくために、まず貨幣を配る」と考えるのだ。

余剰を生み出すために貨幣を配るとはどういうことか?

貨幣は、相対的に機能するものであり、原則として、多く配るほど価値が低下する。つまり、「BI」のような形で全国民に貨幣を配ると、その貨幣の価値(購買力)は低下しやすい。

一方、貨幣の価値が上がる要因は、「供給力の向上(効率化・省力化・自動化などによる生産能力の向上)」だ。過去と比べて少ない労力でモノを生産できるようになれば、供給力が上がり、同じ購買力でより多くのものが手に入るようになる。

そして、「BI」という政策の狙いは、「貨幣の供給(貨幣価値が低下する)」と「生産能力の向上(貨幣価値が上昇する)」を繰り返して、社会を豊かにしていくことにある。

図示すると、以下のようなイメージだ。

「BI」が配られなければ、多くの国民は市場から貨幣を稼ぐしかない。つまり現状は、「貨幣を稼げなければ貨幣が手に入らない状態」だ。

詳しくは本編で説明するが、市場における何らかの効率化や自動化は、素朴に社会を豊かにするよりは、競争を激化させ、「市場から貨幣を稼ぐこと」を難しくする。貨幣によって手に入るものの質が向上しても、それ以上に貨幣を稼ぐのが難しくなれば、むしろ生活は苦しくなってしまう。

それに対して、政府が、ベースとして国民全員に貨幣を供給する仕組みを作り、その貨幣が購買力として機能するような形の「生産能力の向上」を目指せば、効率化や自動化が「豊かさ」として生活に反映されやすくなる。

「BI」が配られることで下がった貨幣価値を、「生産能力の向上」によって元に戻せば、単に「国民全員に無条件で貨幣が配られる」という状態が残る。これを繰り返して、より多くの貨幣(購買力)が国民に配られるようになれば、それは素朴に、「より社会が豊かになった」と言いやすい変化だろう。

ここで注意したいのは、「BI」を配られること(貨幣を与えられること)は、実態ではなく手段であることだ。

政府は、貨幣を刷って配ることはできても、労働力や物質的な財そのものをゼロから生み出せるわけではない。そのため、「BI」という政策を実行するだけでは片手落ちであり、そこから「生産能力の向上」を目指していく必要がある。(この「生産能力の向上」が何にあたるかについては、本編で説明する。)

「BI」と「生産能力の向上」は両輪であり、これから「生産能力の向上」を目指していくためにも、「BI」という制度が必要なのだ。

本論では、「BI」を、「分配の方法」ではなく「生産の方法」として、「十分な余剰があるからBIを配ることができる」と考えるのではなく、「経済活動の前提としてまずBIを配ることで、これから余剰を生み出していこうとする」と考える。

「BI」という仕組みがなければ、「生産能力の向上」に繋がりうるイノベーションも、むしろ競争を激化させて生活を苦しくしてしまう可能性がある。全員に「BI」が配られるという前提があることで、「生産能力の向上」によって、素朴な生活の豊かさを目指しやすくなるのだ。

 

0.6 支給される額面は「目標」という性質を持つ

「BI」の議論における「支出可能な根拠(なぜBIを配ることが可能か?)」と「支給する額面(どれくらいの金額を配るか?)」について、一般的に、何らかの試算をもとに「○○円のBIなら支給することができる」という形で「BI」が提唱されることが多い。

しかしこれは、「BI」を「分配の方法」とした場合であり、先に述べたように、「なぜ困っている人ではなく、全員に無差別に分配するのか?」という主張に対して正当性を持ちにくい。分配できる余剰があるのならば、弱者性を認められる者に優先して分配すべきとされるのが今の社会だからだ。

そのため、「○○という理由で、○○円の余剰があるから、○○円までのBIなら配ることができる」といったような、「支出可能な根拠」を提示しようとすること自体が、「BI」という政策と相性が悪い

「BI」は、その性質上、不確定な未来に対してリスクを負ってリターンを獲得しようとするものであり、これから豊かさを獲得していこうとする「生産の方法」として正当性を持つ。

「BI」の「支出する額面」については、現状を「0」と考えて、少しずつ増やしていくことを目指し、「○○円なら配っても大丈夫だから」ではなく、「とりあえずやってみる」という形でまず仕組みを作る。そして、支給される額面は「目標」という性質を持つ。

生産のためにまず「BI」を配って、事後的に、配られた貨幣が問題なく機能する(もとの購買力を取り戻す)ための「生産能力の向上」を目指す。そう考えるなら、「BI」はその支給額が「目標」になる。

貨幣を与えられておきながらそれが「目標」と言われると、奇妙に思うかもしれない。しかし、そもそも「貨幣」は、それ自体が相対的に機能し、市場のメカニズムによって自動的に調整されるものだ。貨幣価値が低ければ、それは供給力が弱いということであり、これから供給を豊かにしていくための「生産能力の向上」を目指していくという「目標」が生まれる。

イメージとしては、「BI」をまず配り、そのときに想定される貨幣価値の下がり幅が、「これからの目標」になる。「生産能力の向上」によって貨幣価値が元に戻れば、また「BI」の額面を引き上げればいい。そうやって、「BIの引き上げ」と「生産能力の向上」を繰り返すことで、豊かさを目指していく。

もっとも、貨幣価値は非常に多くのファクターが絡むものであり、現実的には、「BI」が支給されたからといってそのぶんだけ貨幣価値が低下するとも限らない。(とはいえ、もし「BI」を配った上で貨幣価値が低下しないなら、それはそれで国民にとってありがたいことではある。)

貨幣価値が必ずしも理屈どおりに変動するわけではないにしても、原則としては、配られる「BI」に対して見込まれる貨幣価値の下がり幅を「目標」にして、貨幣価値が低下しないため(元に戻していくため)の「生産能力の向上」を目指す。

実際のところは、「BI」の実施と「生産能力の向上」は、同時進行で行おうとすることになるだろう。

以上のように考えると、「BI」は、「短期的なリスクを負って、長期的なリターンを目指す」という性質の政策になる。

ここで言うリスクというのは、貨幣価値が低下することによる生活苦のリスクだ。「BI」を配ることで、想定よりも貨幣の価値が大きく下落してしまうかもしれず、そうなれば国民の生活は苦しくなる。一方で、リターンにあたるのは、まさしく「BI」が全員に支給される社会になることだ。

このように、「BI」は成功や安全が保障されている政策ではない。ただ、まずは「BIを配る」というリスクを負わなければ、「BIが支給される社会」というリターンは実現しない。

「BI」は、今はないものをこれから実現していこうとする政策であるがゆえに、事前に「BIを配っても大丈夫な根拠」を提示することはできない。

政治的な議論において、「BI」を実現させようとする人は、何らかの試算なり理論に基づいて「○○だからBIを支給しても問題ない」と主張しがちだが、そのようなやり方(リスクが存在しないという主張)では、「BI」の正当性が破綻してしまう。(もっとも、現実的には、支給しても大きな問題が起こりにくそうな額面から「BI」を始めることになるので、その適切な額面を算出しようとする上で、研究や試算が不要になるわけではないが。)

繰り返し言うが、「BI」は、すでに存在する余剰を上手く分配する「分配の方法」ではなく、これから余剰を作り出していこうとする「生産の方法」として説得力を持つ性質の政策なのだ。

 

0.7 本論で実現を目指す「BI」のまとめ

本論で実現の方法を論じる「BI」のイメージをまとめる。

まず、ここでは、「BI」を「全国民に無差別・無条件で同額の現金を支給する制度」と定義している。そして、このように定義したならば、以下のような手順によって実現を試みることになると主張する。

  • 既存の社会保障から「BI」を「独立」させ、個人の給付を決定するプロセスにおいて、「BI」を上流に、「社会保障」を下流に置く。
  • 「何らかの余剰があるからBIという形で分配できる」という「分配の方法」とは考えず、「今はない余剰をこれから増やしていくために、まずBIを配る」という「生産の方法」と考える。
  • 「BI」を配ることによって想定される貨幣価値の低下に対して、「生産能力の向上」によって貨幣価値を上昇させようとする。貨幣価値の低下と上昇とが相殺されれば、「国民全員にBIが配られる」という状態が残り、過去よりも豊かな社会が達成されることになる。
  • 「BI」として配られる額面自体が「目標」という性質を持ち、まず貨幣を配り、そのあとで、それだけの貨幣を配っても大丈夫な社会を目指していくことになる。つまり、「すでに余剰があるから分配するのではなく、目標としてまず貨幣を配る」という手順になる。
  • 「BI」の給付は、少額から始め、「生産能力の向上」によって貨幣価値が元に戻れば、さらなる額面の引き上げを検討する。「BIの引き上げ」と「生産能力の向上」を繰り返して、より多くの「BI(購買力)」が与えられる社会を目指していく。

ここまで、イントロダクションとして、本論で実現の方法を論じる「BI」がどのようなものかを簡単に紹介した。

以上を踏まえた上で、まず、「BI」を実現する方法を説明するためには、「BI」の両輪となる「生産能力の向上」とは何かを説明する必要がある。

次に、「BI」を、「短期的なリスクを負って長期的なリターンを追求しようとするもの」とするなら、そのような政策を可能にする政治的同意が、いかなる形で成り立つのかを説明する必要がある。

多くの人は、今の日本のような社会で、何かを大きく変えるような政策が実現するとは思っていないだろう。一方で、遠い未来を思い描く空想としては、テクノロジーの進歩や仕事の効率化などによって、「BI」のような制度が実現するのではないかとも考えているだろう。本論の目的のひとつは、現在の社会と未来の空想とを繋げるように、「BI」という制度が具体的にどのような形で実現に向かっていくのかを言語化しようとすることだ。

同時に本論では、「BIを実現する方法」というテーマを軸にして、「なぜテクノロジーが進歩しているはずなのに生活が豊かになっていかないのか?」「なぜ社会に必要な仕事が高く評価されないのか?」「実質的に民主主義が機能していない今の日本において、社会を変革しようとする試みは可能か?」などといった、現在の社会の問題を扱おうとしている。

 

0.8 各章について

長くなるので、章ごとにわけて論じている。

第1章では、「なぜ社会に必要な仕事ほど評価されないのか」について論じる。「ベーシックインカム」の両輪であるとした「生産能力の向上」を説明するにあたって、「そもそも生産とは何か?」を考える必要がある。本論では、「生産」を重視する「豊かさ」の作用と、「分配」を重視する「正しさ」の作用が相反するという見方を示す。そして、「分配」の優先権を争う「相対的な競争」が重視されるほど、社会にとって必要な「生産」に携わる仕事が評価されなくなると考える。

第2章では、「豊かさと正しさが相反する理由」について論じる。第1章で示した「豊かさと正しさの相反」という見方について、両者が相反する理由を説明する。また、なぜ両者が相反するにもかかわらず、「正しいから豊かになる」という倒錯が影響力を持ちやすいのかについても述べる。

第3章では、「政治的に正しくなるほど福祉が弱くなる」について論じる。今の社会において、理解が進むほど福祉が充実していくという考え方がされがちだが、「理解」という有限のリソースをめぐる競争が激化すると、長期的にはむしろ福祉が崩壊していく。本論では、「正しさ」の過剰によって福祉が機能しなくなっていくからこそ、「ベーシックインカム」が必要になると考える。

第4章では、「ベーシックインカムを可能にする考え方」について論じる。第1章から第3章までの内容を図式的に整理して、本論で実現しようとする「ベーシックインカム」がどのような性質のものかを説明しようとする。実は「ベーシックインカム」は、「豊かさ」を目指すという点において「ナショナリズム」と目的を同じくし、「正しさ」に反するものになる。

第5章では、「貨幣を否定する生産共同体」について論じる。本論では、今の日本社会において、選挙による政治の転換は不可能と考え、少数の有志でも始められる社会改革の試みについて説明する。それは、「ベーシックインカム」の両輪として必要な「生産能力の向上」を、いかに自分たちの手で進めていくかという話になる。「貨幣を否定する生産共同体」の活動が影響力を持つことで、国家も「豊かさ」を望む人たちの意見を無視することができなくなり、その先に「ベーシックインカム」の実現がある。

第6章では、「積極財政と資本主義」について論じる。国家が「ベーシックインカム」を配ると、それは「積極財政」という形になりやすいが、であるからこそ「グローバル市場」を無視することができない。現代において「積極財政」を機能させようとするにあたって、国家に与えられている権限や、国家の立ち位置が、かつてとは変化していることを説明する必要がある。

第7章では、「ベーシックインカムが実現したあとの社会」について論じる。第5章で述べる「生産共同体」と、国家の「ベーシックインカム」が実際に進み始めたと仮定して、どのようにして「豊かさ」と「正しさ」の両方を強め、平和な世界を実現していくことができるのかについて説明する。

第8章の「要約とあとがき」には、第1章から第7章までの各章の要約とあとがきを載せている。