第4章 ベーシックインカムを可能にする考え方

 

 

この第4章では、第1章から第3章までの内容を図式的に整理して、「ベーシックインカム」という政策が、どのような特徴を持ち、どのような考え方をすれば実現に向かいうるのかを述べる。

「BI」について説明するため、本章では、前章までで提示してきた「集団性(豊かさ)」と「個人性(正しさ)」の図式を、4つに分割する。

そして、「BI」を、伝統的な社会において機能してきた旧来の「集団性」と区別して、「個人性」が過剰な現代の社会において、これから再起を目指していく「集団性」であると位置づける。

4.1 2つの図式から4つの図式へ

第1章から第3章までは、「集団性(豊かさ)」と「個人性(正しさ)」の2つが相反する図式を提示してきたが、本章では両者を、さらに2つづつ分けて、計4つの図式にする。

すでに第3章で、「個人性(正しさ)」において、「プラスの競争」と「マイナスの競争」があることを説明してきた。

この第4章では、「集団性(豊かさ)」も2つに分割する。そのうちのひとつに当たるのは、「伝統的な価値観」や「ナショナリズム」など、旧来の社会において機能してきた「集団性」だ。

そして、もうひとつが、「ベーシックインカム」のような、これから再構築を試みる「集団性」になる。

伝統的に機能してきた「集団性」と、これから実現を試みる「BI」のような「集団性」とを区別するために、「集団性」を2つに分割するのだ。

このように分割した上で、各々に名称を割り振りたいと思う。

まず、地縁血縁、伝統、文化、宗教、ナショナリズムなど、それを採用した集団が生き残りやすかったゆえに重視されてきた旧来の「集団性」を、強者が生き残ってきた争いという意味を込めて、「闘争」と呼ぶことにする。

次に、ビジネスやメリトクラシーのような、優秀な個人に多くの分配が与えられるルールによって成り立つ「個人性」を、ルールが整備された争いという意味を込めて、「競争」と呼ぶことにする。

「競争」は、第3章で説明した「プラスの競争」にあたる。一方で、これも第3章で説明した「マイナスの競争(政治的正しさ)」は、弱者性を競い合うものであると同時に、伝統社会や国家などの暴力を否定しようとする作用になる。それをここでは、「闘争」に反対するという意味を含めて、「反闘争」と呼ぶことにする。

そして最後が、これから実現を試みる「BI」のような形の「集団性」の再構築になる。詳細については以降で説明していくが、これを、「競争」に反対するという意味を含めて、「反競争」と呼ぶことにする。

  • 伝統的な社会において重視されてきた「集団性」→「闘争」
  • 「個人性」であり、第3章で述べた「プラスの競争」→「競争」
  • 「個人性」であり、第3章で述べた「マイナスの競争」→「反闘争」
  • 「BI」などの方法でこれから実現を目指す「集団性」→「反競争」

さらに、説明のため、「闘争〜反競争」を、隣接する同士が相反する形で配置することにする。その場合、隣り合う同士が「相反」し、斜め同士は「結託」することになる。

なお、第3章(3.7)では、「プラスの競争」と「マイナスの競争」が結託した「個人性」が、「集団性」と対立するという図式を提示したが、それを本章の「闘争〜反競争」図式に当てはめると、以下のようになる。

このように図式化すると、現在、「反競争」にあたる「集団性」が希薄な状態であり、それゆえに「個人性」が過剰な(「集団性」が欠如した)状態になっていると見ることができる。

この図式を提示した上で、以降で、それぞれの特徴について説明していく。

なお以降では、見やすさを考慮して、「闘争」「競争」「反闘争」「反競争」それぞれに、対応する色を割り当てることにする。

 

4.2 「闘争→競争」と「闘争←反闘争」

まず、「闘争」と「競争」について説明する。

闘争」は、ルール無用の生き残りを懸けた争いであり、「競争」は、個人が勝利するルールを意図的に整備した上での争いになる。

  • 闘争:生き残りに有利だから重視されてきた「集団性」
  • 競争:「闘争」に対して、個人が評価されるルールを整備した「個人性」

この闘争競争の関係において、「整備することで問題を解決する」ということが行われている。

闘争」と「競争」は、どちらも「強さ」が肯定されるが、「競争」は、「個人としての強さ(実質的には弱さ)」が評価される仕組みを「整備」することによって、「闘争」の「正しくない」という問題を解決しようとする。

この場合、もともとの目的に戻るルールの整備によって、問題の解決が図られることになる。

第2章で述べたが、我々がもともと持っているのは「個人の欲望」だ。スタート地点には、生き残りたい、繁殖したい、などの、遺伝形質に規定された「個人の欲望」がある。しかし、「数が多いほうが強い」ゆえに、「個人の欲望」を全うする(生き残る)ためには、個人を否定して「集団の欲望」を重視しなければならなかった。

そして、第3章で述べたように、強い集団が生き残る「闘争」において、集団は大規模化していき、「グローバル」まで行き着くことで、目的が「豊かさ」から「正しさ」に反転する。

そうやって反転した「正しさ」は、再び「個人(数の少なさ)」を目指すことになるが、そこで、スポーツ、学力テスト、市場競争など、意図的に個人が評価されるルールを整備することによって「数の少なさ(優秀な個人の評価)」に向かおうとするのが「競争」になる。

上のような考え方を、闘争競争の図式に当てはめると、以下のようになる。

このように、闘争競争」の関係は、当初の目的である「個人の欲望」に戻ろうとするものであり、それは、「個人の欲望(正しさ)」が重視されるルールの「整備」によって行われる。

次に、「闘争」と「反闘争」について説明する。

反闘争」は、「闘争」に対して、直接的に反対しようとする作用になる。また、それは同時に、反対する相手に依存するものでもある。

例えば、「政治的正しさ(反闘争)」は「国家(闘争)」の強権に反対するが、同時に、「政治的正しさ(反闘争)」が要求する社会福祉なども、結局は「国家(闘争)」の支出によって行われるように、反対する先に依存している側面がある。

  • 闘争 :生き残りに有利だから重視されてきた「集団性」
  • 反闘争:「闘争」に対して、反対すると同時に依存する「個人性」

闘争反闘争」は、「反対するが依存してもいる」という関係になる。

第1章(1.11)では、「正しさ」の作用が「豊かさ」を切り崩していけば、長期的には双方が共倒れになることを説明してきた。

また、第3章(3.13)では、「正しさ」の作用が、「やるべきことを増やす(複雑化)」という形で、集団への要求を大きくしながら、集団の維持を難しくする作用であることを説明してきた。

つまり、反闘争」は、集団に対して、反対しながら依存する(負担を増やす)ことで、「闘争」の影響力を弱めようとする作用になる。

このように、闘争反闘争の関係は、「強さ(豊かさ)」を重視する作用に対して、「弱さ(正しさ)」を重視する作用が対峙することになり、それは「反対すると同時に依存する」性質のものになる。

以上、「闘争」「競争」「反闘争」の関係について述べてきたが、ここから、「反競争」がいかなる特徴を持つのかを演繹することができる。

先程まで述べてきたように、「闘争」「競争」「反闘争」は、以下の特徴を持つ。

  • 闘争 :生き残りに有利だから重視されてきた「集団性」
  • 競争 :「闘争」に対して、個人が評価されるルールを整備した「個人性」
  • 反闘争:「闘争」に対して、反対すると同時に依存する「個人性」

ここから演繹して、「反競争」は以下のような特徴を持つと考えることができる。

  • 反競争:「反闘争」に対して、集団が評価されるルールを整備した「集団性」
  • 反競争:「競争」に対して、反対すると同時に依存する「集団性」

 

4.3 「反闘争→反競争」と「競争←反競争」

第3章(3.15)で少し触れたが、「実質的な平等」のために「弱さ(正しさ)」を追求すると、「ひとりひとりがその人に固有の弱者性を持つ(全員が人それぞれの弱者になる)」まで行き着いてしまうという問題に対して、あえての「形式的な平等」によって「豊かさ」を獲得しようとする動きが、「BI(反競争)」になる。

まず、闘争競争の関係から演繹して、反闘争反競争について説明する。

「闘争〜反競争」の図式において、「闘→競」という縦の関係は、「整備」を意味すると考える。

先に、ルール無用の争いである闘争に対して、個人が評価されるルールを整備したのが競争であることを述べた。

それと対照的に、反闘争」に対して、あえて集団が評価されるルールを整備したものを「反競争」とする。

まず、この図式では、「政治的正しさ」や「実質的な平等を目指す社会福祉」のような「反闘争」を、強い集団が生き残る「闘争」と同じように、ある種「未整備」の状態であると見なしている。「弱者に補助が与えられるべき」という前提において、各々が自身の弱者性を主張し合う競争が繰り広げられるような状態を、「強い者が生き残る」といった「闘争」と同じく、「未整備」であると考えるのだ。

そして、第3章(3.15)で述べたように、弱者であること(少数派であること)に正当性がある「反闘争」において、弱者性を競い合う競争によって、カテゴリが細分化していく。

反闘争」のスタート地点には、「すべての人の普遍的人権」や「全員の生活の保障」がある。しかし、「数が少ないほうが弱い」ゆえに、「正しさ」を厳密に追求するほど、弱者性を救済するためのカテゴリが細かくなっていく。その結果として「人それぞれ(個人)」まで行き着くことで、目的が「正しさ」から「豊かさ」に反転する。

そうやって反転した「豊かさ」は、再び「集団」を目指すことになるが、「BI」のような仕組みを「整備」することによって、当初の「数の多さ(全員の生活の保障)」へ向かおうとするのが「反競争」になる。

ここで、先ほど闘争競争において示した、反転して「個人(数の少なさ)」へ向かう図式と対照的な、反転して「集団(数の多さ)」へ向かう図式を考えてもらいたい。

この図式を、「闘争〜反競争」の図式に当てはめると、以下のようになる。

この「反闘争反競争」の関係においても、「整備することで問題を解決する」ということが行われている。

反闘争反競争」は、「個人(最小)」から反転して「集団(数の多さ)」へ向かう動きであり、それは、「全員の生活の保障」のために必要な「集団性(豊かさ)」を再構築していこうとするものになる。

リソースの奪い合い(相対的な競争)にならない形で、「生産能力の向上(豊かさ)」を目指すルールを整備しなければ、長期的には、福祉を可能にする余剰がなくなってしまうからだ。

つまり、反競争」は、「豊かにならない」という「反闘争」の問題を、集団が評価されるルールを「整備」することによって解決しようとする。

  • 反闘争:弱者性を認められた者に多くの分配が与えられる「個人性」
  • 反競争:「反闘争」に対して、集団が評価されるルールを整備した「集団性」

「BI(反競争)」は、弱者性(少数者性)の競い合いによって社会が疲弊していくのに対して、「全国民に無差別・無条件で同額の現金を支給」を目指すことで、「集団性(豊かさ)」を再起しようとする。

闘争競争」が、反転して「個人」へ向かう動きであるのに対して、「反闘争反競争」は、反転して「集団」へ向かう動きであり、ふたつを対比すると以下のようになる。

このような形で、闘争競争」「反闘争反競争」は、「数が多いほど強い・数が少ないほど弱い」という事情で当初の目的が転倒していたところ、それを反転させるルールの整備によって、スタート地点に立ち返るという性質を持つ。

なお、上の図式では、「中間(ローカル)」を「集団性」、「両極(個人・グローバル)」を「個人性」とする考え方に、齟齬が生じているかもしれない。

補足的に説明するなら、この場合において、ルールを整備する主体は主に「国家」であり、そこがスタート地点になる。そして、「国家」は、集団の中でも特に大規模な集団であり、「グローバルに近い集団」という特徴を持つ。

上の図式のように考えると、一定程度まで進行した闘争競争は「個人」へ向かうもので、反闘争反競争は「中間」へ向かうものと見なすことができる。

この、国家が「グローバルに近い集団」であるという論点の詳細は、以降の章で論じるつもりだが、ここではひとまず、「闘争〜反競争」の話に戻る。

次に、闘争反闘争の関係から演繹して、競争反競争について説明したい。

闘争反闘争」と同様に、「競争反競争」も、「反対するが依存してもいる」という関係になる。

反競争」は、差をつくろうとする「競争」に対して、差を埋めることによって「競争」の影響力を否定し、「豊かさ」を目指そうとする。だがそれと同時に、相手に依存してもいる。

これは具体的には、「市場」と「BI」の関係を考えるとわかりやすいだろう。

「BI」という形で貨幣を配る量が多くなるほど、市場による差異化が均され、市場が機能しにくくなっていく。同時に、もし市場が破綻した状態であれば、「BI」を配ってもそれが購買力として機能しない。

つまり、「BI」を配ることで市場の影響力が弱まっていくが、市場が弱まりすぎると「BI」を配る意味がなくなってしまうのだ。

このように、「BI(反競争)」は、「市場(競争)」に反対する作用だが、同時に依存しているものでもある。

  • 競争 :優秀な個人が評価されるルールを整備した「個人性」
  • 反競争:「競争」に対して、反対すると同時に依存する「集団性」

競争反競争の関係は、「個人の強さ(正しさ)」の重視に対して、「集団の弱さ(豊かさ)」を重視する作用が対峙し、「反対すると同時に依存する」という性質のものになる。

ここまで述べてきた、「闘争〜反競争」の図式をまとめると、以下のようになる。

  • 闘争 :生き残りに有利だから重視されてきた「集団性」
  • 競争 :優秀な個人が評価されるルールを整備した「個人性」
  • 反闘争:弱者性を認められた者に保障を与えようとする「個人性」
  • 反競争:「反闘争」の整備であり、「競争」に反対すると同時に依存する「集団性」

このような形で「闘争〜反競争」を図式化したが、それによって何を論じたいのかというと、まず、「BI(反競争)」が、「集団性(豊かさ)」を重視する性質のものであることが言える。

一般的な文脈では、「BI」は、個人の権利や生活を保障する「個人性(正しさ)」を重視するものとして提唱されることが多い。しかし、本論において主張したいのは、「BI」はむしろ「正しさ」に反するものであることだ。それについて、以降で詳しく説明していく。

 

ここまでのまとめ
  • 「集団性」と「個人性」が相反する図式を、本論では、「闘争」「競争」「反闘争」「反競争」の4つに分割した。
  • 「闘争→競争」「反闘争→反競争」の関係は、もともとの目的を実現するための「整備」を意味する。
  • 「闘争←反闘争」「競争←反競争」の関係は、「反対すると同時に依存する」ことを意味する。
  • 「闘争」は、生き残りに有利だから重視されてきた「集団性」である。
  • 「競争」は、優秀な個人が評価されるルールを整備した「個人性」である。
  • 「反闘争」は、弱者性を認められた者に保障を与えようとする「個人性」である。
  • 「反競争」は、「反闘争」の整備であり、「競争」に反対すると同時に依存する「集団性」である。

 

4.4 「闘争」と「反競争」の結託

本章の図式化によって主張したいのは、まず、闘争」と「反競争」が、「集団性(豊かさ)」において結託していることだ。

つまり、「BI(反競争)」は、家族、地域、文化、伝統、ナショナリズムのような「闘争」と同じく、「集団性(豊かさ)」を目指すものということになる。

一般的に「BI」は、「個人性(正しさ)」を重視する文脈で提唱されることが多い。ただ、これについては第0章(0.5)(0.6)や、第3章(3.6)で述べたが、「BI」が「形式的な平等(豊かさ)」を推し進めようとするものである以上、どうしても「実質的な平等(正しさ)」と相反するものになってしまう。

「BI」を「正しさ(公平な分配)」の方法として提唱しても、実現可能性のあるものにはなりにくいことは、すでに本論で何度か説明している。

第3章では、一見して対立するように見える「プラスの競争(競争)」と「マイナスの競争(反闘争)」が実は結託していることについて説明したが、同じように、本章では、一見して対立しているように見える「ナショナリズム(闘争)」と「ベーシックインカム(反競争)」が、実は結託していることを説明したい。

まず、現実的に「BI」を配るとき、それが政府による支出という形になる時点で、「国家(闘争)」に多くを頼ることは避けられない。国家がその権力を機能させなければ、「BI」という制度が実現することはない。

また、「BI」を「全国民に無差別・無条件で同額の現金を支給する制度」と定義したとして、「どこまでを国民に含めるか」において、ナショナリズムが介在することは避けられない。「BI」が実現したならば、国民国家という「ローカル」な枠組みが、より強く意識されるようになる場合が多いだろう。

さらに、「BI」には、家族や地域共同体のような伝統コミュニティを有利にする性質がある。

家族や地域のような「集団」の単位ではなく、「個人」という単位にフォーカスして支給するのが「BI」だ。しかし、実際に「BI」が配られた場合を想定すると、大家族で暮らして生活コストを下げられる人たちほど有利になり、単身でアパートに住んで家賃を支払っているような人ほど不利になりやすいだろう。

「BI」は、乳幼児や高齢者のような市場で貨幣を稼ぐことができない者にも同じように支給されるので、子供を多く産んだ人や、家族でまとまって住んでいる人たちを有利にしやすい制度と言える。

個人で生きようとする人も含めた、全員の絶対的な水準を向上させていこうとするのが「BI」なのだが、貨幣が相対的な多寡によって機能するものである以上、「BI」を配ることで、集団よりも個人が相対的に不利になってしまうことは否めない。

このように、「BI(反競争)」と「ナショナリズム(闘争)」は、結託して、「市場競争(競争)」や「政治的正しさ(反闘争)」の影響力を弱めようとする。

 

4.5 「差別的な協力」と「無差別的な協力」

第3章では、「個人性(正しさ)」を、「プラスの競争(競争)」と「マイナスの競争(反闘争)」という形で分割した。

それに対して、本章では、「集団性(豊かさ)」を、「闘争」と「反競争」に分割したが、そこで、「闘争」を「差別的な協力」と呼び、「反競争」を「無差別的な協力」と呼ぶことにしたい。

闘争」と「反競争」は、どちらも「集団性(豊かさ)」の作用ではあるが、「プラスの競争」と「マイナスの競争」に「強者性をめぐる競争か、弱者性をめぐる競争か」という違いがあるように、「差別的な協力(闘争)」と「無差別的な協力(反競争)」にも違いはある。

闘争」が、閉鎖的な場において、「差別」や「禁止」という形で機能する「集団性」であるとするならば、「反競争」は、公開性のある場において、「無差別」や「規制緩和」という形で機能する「集団性」になる。

第3章で述べたが、「個人性(正しさ)」は、「複雑化(やるべきことを増やす)」を進める作用だ。一方の「集団性(豊かさ)」は、「簡易化(やるべきことを減らす)」によって、「複雑化」に対抗しようとする。

そのとき、闘争(差別的な協力)」は、「○○してはいけない」という形で「簡易化」を図り、「反競争(無差別的な協力)」は、「○○しなくてもいい」という形で「簡易化」を図る。

  • 闘争 :差別的な協力 :差別・禁止・閉鎖性   :「○○してはいけない」という形の「簡易化」
  • 反競争:無差別的な協力:無差別・規制緩和・公開性:「○○しなくてもいい」という形の「簡易化」

伝統的な社会において機能してきた「闘争」は、「○○してはいけない(○○だけしていればいい)」という形で個人の自由を制限することによって、「相対的な競争」による「複雑化(正しさ)」を否定し、「簡易化(豊かさ)」を進めようとする。

それに対して、「反競争」は、例えば、無条件に貨幣を与える「BI」によって、「市場で金を稼がなければ生活できない」「弱者性を認められなければ補助が与えられない」といった「相対的な競争」を否定し、「○○しなくてもいい」という形の「簡易化(豊かさ)」を目指す。

(さらに、「反競争」は、その政治的な運動として、既存の権利の枠組みに対して「規制緩和」を要求するのだが、この特徴については第5章で説明する。)

「差別的」と「無差別的」を、同じ作用と考えるのは違和感があるかもしれないが、それについては以下の図をイメージしてほしい。

両者の違いは、「グローバル(最大)」から「中間」に向かうか、「個人(最小)」から「中間」に向かうかにある。

第3章では、「中間(ローカル)」が「集団性」で、「両極(個人・グローバル)」が「個人性」であるという図式を提示した。

このような図式において、闘争」と「反競争」は、どちらも「中間(ローカル)」を目指す作用であり、「すべての人間(グローバル)」の側から中間に向かうのが「差別的な協力(闘争)」で、「人それぞれ(個人)」の側から中間に向かうのが「無差別的な協力(反競争)」になる。

闘争」において、例えば、「あらゆる性別」だと「個人性」だが、「男」や「女」のような差別的な枠組みを強調すると「集団性」になる。「全員が同じ人間」という「個人性」に対して、特定の文化や所属などを強調して協力を促すのが「差別的な協力」だ。

一方で、反競争」は、すでに細分化が進みきった状態(各々が個人であるという意識が浸透した社会)において、「集団性」を再統合しようとする試みになる。それは、図式的には、「人それぞれ異なる」という「個人性」の側から、「中間(ローカル)」に向かうための協力を促す「無差別的な協力」になる。

両者の違いは、「まったく差がない状態(全員が同じ人間)」からスタートするか、「まったく共通点がない状態(人それぞれ違う人間)」からスタートするかの違いであり、「ローカル(集団性)」を目指すという点においては共通している。

「プラスの競争(競争)」と「マイナスの競争(反闘争)」が、結託しているが表面的には対立して見えるように、「差別的な協力(闘争)」と「無差別的な協力(反競争)」も、表面的には対立しているように見える。

しかし、先に述べたように、実態として「闘争(伝統的な価値観・ナショナリズム)」と「反競争(ベーシックインカム)」は補完し合う関係にあり、両者はどちらも、「両極(グローバル・個人)」から「中間(ローカル)」へ向かっていく「集団性(豊かさ)」の作用なのだ。

 

4.6 個人性のあとの集団性

本章で「無差別的な協力(反競争)」という概念を提示した理由は、現代において、「差別的な協力(闘争)」という形では、「集団性」を再起することが難しいからだ。

闘争」を再び強めることが難しい理由として、「競争」と「反闘争」が、「闘争」の問題に対処するように機能していることが挙げられる。

そして、そうやって「競争反闘争」が機能しているがゆえの「個人性」の過剰という問題に対して、それに対処しようとするのが「反競争」になる。

そのため、反競争」は、「闘争」を整備する「競争」を整備したものであり、「闘争」に反対する「反闘争」に反対するもの、という性質を持つ。

今の社会において、「闘争」に対処する「競争反闘争」が強く機能しているがゆえに、「集団性」の再構築は、「闘争」ではなく「反競争」という形で行う必要がある。

闘争」は、情報が制限された閉鎖的な環境において成り立っていた「集団性」だ。なお、例えば家庭のようなプライベートな空間がある程度は閉鎖的にならざるをえないように、情報が完全に公開された状態がありえない以上は、「集団性」において「闘争」的な要素がまったくなくなることはない。とはいえ、近代化と情報化が重視される現代において、「闘争」を今以上に盛り上げようとすることも難しい。

反競争」は、個人の権利、差別の撤廃、公開性などが重視される「近代的な価値観(競争反闘争)」を前提とし、その上で、「個人性」の過剰(「集団性」の欠如)という問題に対して、合理的に「集団性」を再構築していこうとする。

我々がすでに「個人」であることを踏まえた上で「集団性」を重視するのが「反競争」であり、その意味で「反競争」は、「個人性のあとの集団性」になる。

ここまでの流れを振り返るなら、まず、第2章(2.1〜2.4)で述べたように、我々サピエンスは、自然な本能(遺伝形質)としては「個人」であり、もともとは特に強い種ではなかった。だが、不自然に協力し合う集団のほうが存続に有利という事情から、「集団性」が重視されてきた(闘争)。そのような「集団性」の問題に対して、近代化(グローバル化)が進むと、再び「個人性」を重視する動きが起こる(競争反闘争)。しかしそれによって、現代の先進国では「個人性」の過剰という問題が起こっている。その問題に対処するための「集団性」を再構築していく方法が、本論で述べようとしている「反競争」になる。

つまり、「反競争(BI)」は、「個人性のあとの集団性」であり、「個人性(正しさ)」の過剰という現代の問題に対処する「集団性(豊かさ)」のための方法になる。

そして、ここで主張したかったのは、反競争」は、「正しさ」の問題に対処できるからこそ、「正しさ」と相反する「正しくないもの」になってしまうことだ。

「BI」は、「正しくない」が、それでも必要であるという価値判断(集団性)のもとに行われる性質のものになる。それを論じるために、ここでは、「闘争〜反競争」の図式を提示し、「BI」を「反競争」と位置づけたのだ。

 

ここまでのまとめ
  • 「闘争」と「反競争」は、表面的には対立するものに見えるが、実は結託して「集団性(豊かさ)」を進めようとする。
  • 「BI(反競争)」という制度は、その実現において「国家(闘争)」に多くを頼るものになる。また、「BI」は、保守的・伝統的な形で暮らす人たちを有利にしやすい。このように、「闘争」と「反競争」は、「集団性(豊かさ)」において結託している。
  • 「差別的な協力」である「闘争」は、個人に「○○してはいけない」を押し付けることによって、「複雑化」に対抗し、「簡易化」を進める。
  • 「無差別的な協力」である「反競争」は、すでに「複雑化」が進み、各々が「個人」になったという前提において「集団性」を再編しようとする。それは、例えば「BI」のような、「○○しなくてもいい(金を稼がなくてもいい)」という形の「簡易化」になる。
  • 「差別的(闘争)」と「無差別的(反競争)」は、表面的には対立するものに思えるが、どちらも「中間(ローカル)」に向かう点において「集団性」の作用になる。「グローバル(全員が同じ人間)」の側から中間に向かうのが「闘争」であり、「個人(人それぞれ異なる)」の側から中間に向かうのが「反競争」である。
  • 「闘争」の問題を「競争・反闘争」が対処し、その「競争・反闘争」の問題に対処するのが「反競争」になる。「反競争」は、我々がすでに「個人」であることを踏まえた上で「集団性」を再編しようとする試みであり、その点において「個人性のあとの集団性」と言える。

 

4.7 「ベーシックインカム」は「正しさ」と相容れない

本章において、「闘争〜反競争」の図式を提示したが、その目的は、「BI(反競争)」が、「正しさ」の過剰という問題に対処しようとする方法であるがゆえに、「正しさ」とは相容れないものになることを説明するためだった。

現在の政治の場では「正しさ」が重視されやすく、ゆえに、「BI」を実現しようとする言説も、試算や実験や実証など「正しさ」の方法によって、「BI」の正当性を勝ち取ろうとするやり方になることが多い。

しかし、これは第0章(0.4)でも述べたが、「形式的な平等(実質的には不平等)」を進める「BI」は、そもそもの性質として「正しさ」に反するもの(「豊かさ」の方法)であるがゆえに、「正しい」という形で正当性を勝ち取るのが難しい。

例えば、何らかの試算や実験によって「○○円のBIなら実行しても大丈夫」という形で「BI」の正当性を示そうとしても、そのような、「問題が起こらないから実行できる(正しいから可能になる)」という考え方自体が、「BI」とは致命的に相性が悪いのだ。

そして、「豊かさ」を獲得しようとする試みは、「失敗するかもしれないがリターンを期待してやってみる」という価値判断によって行われる性質のものであり、やる前から「確実にこれだけのことが可能」と言えるものにはなりにくい。

第3章(3.4)では、「集団性」が「長期」で、「個人性」が「短期」であることについて軽く触れたが、ここでは、「集団性」が「長期的な可能性」を、「個人性」が「短期的な確実性」を志向するものと考えることにする。

  • 集団性(豊かさ):長期的な可能性
  • 個人性(正しさ):短期的な確実性

まず、これは第3章でも述べたが、寿命が限られている「個人」に焦点を当てると「短期」になりやすく、「個人」よりも長く続きうる「集団」のほうが、視点が「長期」になりやすい。

加えて、一般に、何らかの物事は「長期」であるほど不確実だ。

「短期」よりも「長期」であるほうが予測が難しくなり、ゆえに、「短期的な確実性(正しさ)」の重視は、「長期的な可能性(豊かさ)」に相反しやすい。

「豊かさ」のためには、長期的な計画であるがゆえに成功がおぼつかない試みにリソースを注ぎ込む必要があり、一方で、「正しさ」のために確実なこと(間違えないこと)だけを追求すると、短期的には現状を維持しやすいが、少しずつ社会の余力が失われていく。

素朴に考えても、「失敗が許されない場」というのは、大きな成果の可能性が乏しくなりやすいだろう。そして、「個人」としての市民が、「集団」のリーダーである政治家を糾弾し、何らかの問題が起こりうる要素が厳しく追及される現在の政治は、そのような「失敗が許されないゆえに発展可能性のない場所」になってしまっている。

なお、何らかの政治的決定において、国家が財政規律を意識して支出を絞る(「正しさ」を重視する)ほど、貨幣価値が維持されやすい代わりに国力が少しずつ衰えていき、一方、国家の支出を増やす(「豊かさ」を重視する)政策は、出生率の改善など長期的な国力向上に繋がりうるが、既存の秩序が崩壊するリスクが増える。このような財政支出の問題については、第6章で説明する。

ここではひとまず、「確実であること・間違いのないこと」の重視(「正しさ」の追求)は、余剰を少しずつ切り崩していく性質があり、一方で、余剰を増やしうる試み(「豊かさ」の追求)は、「不確実なもの・リスクを負うもの」になりやすい、という相反関係を指摘したい。

政治において「正しさ」が重視される現在、実験や実証などの学術的な方法により「短期的な確実性(正しさ)」を提示することが良しとされがちだが、まさにそのようにして間違いが起きるリスクを否定することに、「長期的な可能性(豊かさ)」を放棄する性質があるのだ。

ただ、この相反関係は、本論で何度も指摘してきたように、「正しいから豊かになる」という倒錯によって見えにくくなっている。

政治において「豊かさ」と「正しさ」が相反する具体例を挙げるなら、例えば、「基本的人権」のような「正しさ」の概念と、「BI」のような「豊かさ」を追求する試みは、決定的に相性が悪い。

「BI」は、「今はないけれど、これから増やしていく」といったものになる。一方で、「人権」は、「あらかじめ万人に与えられている」ことが想定されるものだ。そのため、「BI」を「人権」に類するものと考えると、齟齬が生じる。

  • 人権(正しさ):すでに全員が所持していると想定するもの
  • BI(豊かさ) :これから獲得していこうとするもの

このように、これからリターンを獲得しようとする「豊かさ」と、それがすでに保障されていると考える「正しさ」の概念は、相反関係にあるのだ。

「人権」を重視する文脈で「BI」が提案されることは多い。これについて、「個人性」が「集団性」に反対しながらも依存するものであると先に説明してきたように、「BI」のような「豊かさ」によって、「人権」という「正しさ」が成立する側面はある。

とはいえ、性質としては「BI(豊かさ)」と「人権(正しさ)」は相反し、少なくとも短期的には、「豊かさ」を追求しようとする試みは、「正しさ」に反するものになりやすい。

実際に、国民全員を等しく扱う「BI」は、「政治的正しさ(実質的な平等を追求する社会福祉)」によって恩恵を受けている人たちを相対的に不利にする性質がある。ゆえに、「正しさ」が重視される政治的議論において、「BI」という政策が正当性を勝ち取ることは難しいだろう。

「BI(反競争)」は、「正しさ」の過剰に対処する方法だからこそ、「正しさ」の文脈においては正当性を持たないものになってしまうのだ。

 

4.8 「豊かさ」のための政治的方法

ここまで、「政治的議論において正当性を勝ち取る」や「実験や実証によって問題がないことを示す」といった「個人性(正しさ)」の方法では、「BI」の実現は難しいと述べてきた。

では、政治における「集団性(豊かさ)」の方法とは、いったいどのようなものなのか?

実は、「豊かさ」のための方法の例として、今の選挙制度を挙げることができる。

選挙において、候補者は、地元の人たちと握手を交わしたり、選挙カーで名前を言って回ったり、冠婚葬祭に顔を出したりする。このような選挙活動は、「近代的な価値観」からすると、不合理で時代遅れなものと見なされやすい。しかしそれゆえに、選挙においてはまだ「集団性」が維持されている。

「個人性」に寄った考え方をするならば、政治家にとって重要なのは、「いかに優れた政策を立案できるか」や「いかに複雑な問題を理解できるか」であり、政策の内容も述べずに名前を連呼するような政治活動は、馬鹿げたものに思えるだろう。しかし、そのようなものであるからこそ、選挙活動は、「集団性」に耐えられるかどうかのスクリーニングとして機能している。

「優秀であるがゆえに集団を嫌う個人主義者」といったタイプの人間では、不合理な選挙活動を続けて当選することが難しい。つまり、「正しさ」に過剰適応した候補者が入り口で弾かれるという形で、選挙においては「集団性」が重視されている。

時勢としては、「政策立案能力」や「複雑な問題への理解」といった「個人性」の要素が重視される度合いが高まっているが、それでもまだ選挙において、「地元の人たちの支持を得ているか(集団であることの理不尽に耐えられるか)」といった「集団性」を無視することはできない。

「地域」という伝統的な枠組みごとに選挙区が割り当てられていることも、情報化が進んだ今の社会からは不合理に思えるかもしれないが、それゆえに選挙は、「闘争」的な「集団性」が重視されているものと見ることができる。

では、「闘争」的な旧来の制度がうまく機能しなくなっているとして、これから目指すべき、選挙における「反競争」的な「集団性」の方法はどのようなものになるだろうか?

それは例えば、「BI」に関して言うなら、「BIに賛同しない政治家は選挙に当選するのが難しくなる」という形の圧力が働くことで行われる。

現在の選挙において、「地元の人たちの支持を得るための不合理な選挙活動に耐えられるか」という形で選別が行われているのと同じように、これから、「BIに賛成しているかどうか」という形でスクリーニングが機能するようになれば、「BI」が実現に近づくだろう。

これは、「BIについて深く理解している政治家を選ぶ」といったことではない。そもそも「BI」は、「深い理解」を否定する「簡易化」に意味がある性質のものであり、「BI」に関してはむしろ、政治家は自分の意見を持つべきではない。

「BI」は、「理解」や「議論」から切り離されて、それぞれの政治家の意図とはまったく関係なく成立するものでなければならないのだ。

そのため、「BIに理解を示す政治家を増やしていく」というよりも、「BIに賛成しない政治家は議席を得られないようにする」という形で、入り口の時点でふるい分けを機能させることが、「BI」を実現するための方法になる。

なぜこのようなやり方をするかというと、第0章で述べたように、「BI」は、「公平な分配をめぐる政治的な議論」において正当性を持つものではないからだ。「議論」という「複雑化(正しさ)」の方法こそが、「BI」という「簡易化(豊かさ)」の方法と相反し、であるからこそ、議論に参加する前の段階でスクリーニングする必要がある。

もちろん、仮に「BI」が実現したとして、個々の政治家の能力や意見が必要ないことにはならない。「BI」は、既存の社会保障の影響力を弱めはするかもしれないが、完全に否定するわけではなく、政治的な議論は重要なものであり続けるだろう。

また、「BI」を実現する上で、試算や実験や実証などの学術的な知見がまったく必要ないということにもならない。本章(4.3)で述べたが、市場が破綻してしまえば「BI(購買力)」を配っても意味がないので、「どれくらいの額面を配ればどれくらいのリスクがありそうか?」を示そうとする専門家の試みが意味を持たなくなるわけではない。

とはいえ、ここまで繰り返し述べてきたように、性質としては「BI」は、「議論」と切り離されていなければ実現が難しいものになる。

ゆえに、政治的議論を行う以前の段階で、「BIに賛成しない政治家は議席を得られない」という形の圧力を機能させることが、「BI」を実現する方法になる。

 

4.9 「BI」を実現する手順

第0章で述べたことの繰り返しにもなるが、ここで改めて、「BI」を実現する手順をまとめたい。

まず、「BI」は、「実質的な平等(正しさ)」のための議論から切り離される必要がある。

それは、「政治的な議論においてBIが正当性を勝ち取る」という形ではなく、「BIに賛成しない政治家は議席を得られない」という形で、つまり、議論以前の政治家を選別する段階で、「BI」に賛成するかどうかのスクリーニングを機能させるというやり方になる。

そして、第0章で述べたが、個人の給付を決定するプロセスにおいて、「BI」を上流に、「社会保障」を下流に置く。

「BI」は、全員が同じ額面であるがゆえに「固定(独立)」で、社会保障は、個人によって額面が変化するので「 BIによって変動(従属)」になる。

このような「BI」を、すでに存在する余剰を公平に振り分ける「分配の方法」ではなく、これから余剰を増やしていくための「生産の方法」と考える。

「全国民に無差別・無条件で同額の現金を支給」という「形式的な平等」であることの意味は、「BI」が、「正しい」分配の仕方だからではなく、これから「豊かさ」を獲得していくための方法だからだ。

「BI」は、「貨幣を配る」というやり方をするゆえに、「余剰を分配するもの」というイメージを持たれやすいだろう。しかし、貨幣は多く配ることで価値が減少するものであり、「BIの引き上げによる貨幣価値の低下」と「生産能力の向上による貨幣価値の上昇」を繰り返して、「国民全員にBIが配られる」という「豊かさ」を目指すことに、「BI」という政策の意味がある。

もし、貨幣価値が維持されたまま、全国民に無差別・無条件で「BI(購買力)」が支給される状態が達成されたならば、それは素朴に「豊かになった」と言いやすいだろう。

実際には、「BI」によって下がった貨幣価値がもとに戻るというよりは、インフレが進んで市場に出回る貨幣量は増えていきやすいだろうが、ようするに、全員に無条件で与えられる「購買力(物価に対する貨幣価値)」が増えていけば、過去よりも多くの「豊かさ」が実現したと考えることができる。

そして、ここまで説明してきた上で、「BIの引き上げ」と両輪になるとされる「生産能力の向上」とはいったい何なのか、という話を避けられないことがわかるだろう。

次の第5章からは、「生産能力の向上」を目指す方法について説明する。

ここまで、「BI」を実現する方法について説明してきたが、例えば、「BIに賛成しない政治家は議席を得られない」ような政治的圧力が機能している状態を、本当に実現することができるのかと疑問に感じる人は多いだろう。

今の日本のような社会において、「短期的に生活が悪くなるリスクを追って、長期的なリターンを追求する」という方向に舵を切る決定が民主的に可能かというと、少なくとも選挙という方法だけでは、うまくいく見込みが乏しいと言わざるをえない。

つまり、「BI」という大きな規模で「集団性(豊かさ)」を目指す政策を実現する以前に、それよりは小さな規模の「生産能力の向上」を実現する必要がある。そのための方法を、次の第5章で説明する。

 

ここまでのまとめ
  • 「BI(反競争)」は、「正しさ」の過剰に対処するための「豊かさ」の方法であるがゆえに、「正しさ」と相容れないものになる。
  • 「集団性(豊かさ)」は「長期的な可能性」を、「個人性(正しさ)」は「短期的な確実性」を志向する。
  • 「今はないものをこれから獲得しようとする」のが「長期的な可能性」の重視であり、「すでにあるものを公平に分配しようとする」のが「短期的な確実性」の重視になる。「BI」は前者にあたり、「人権」や「社会保障」は後者にあたるので、両者は相反する関係にある。
  • 政治において機能している「闘争」的な「集団性」の例として、現行の選挙のように、「地元の人たちの支持を得ているか(集団であることの理不尽に耐えられるか)」というスクリーニングが機能していることを挙げることができる。
  • 「政治的な議論においてBIの正当性を勝ち取る」のではなく、議論する以前の段階で、「BIに賛成しない政治家は議席を得られない」という形でスクリーニングするのが、「反競争」的な「集団性」の方法になる。
  • 「BI」を実現する手順として、まず、「BI」を「複雑化(正しさ)」の議論から切り離す。それは、議論以前の選挙の段階で「BI」の賛否を問うやり方になり、また、個人の給付を決めるプロセスにおいては、「BI」を「独立」として「社会保障」に影響されない上流に置く。
  • 「BI」は、貨幣を配るが、それは余剰を分配するためではなく、これから余剰を生産していくためである。「BIの引き上げによる貨幣価値の低下」と「生産能力の向上による貨幣価値の上昇」を繰り返すことによって、全員に「BI(購買力)」が配られる社会を目指す。
  • 「BI」の実現において重要になるのが「生産能力の向上」だが、それについて次の第5章で説明する。

 

第4章のまとめ

第1章から第3章までの「集団性(豊かさ)」と「個人性(正しさ)」の相反の図式を、本章で「闘争」「競争」「反闘争」「反競争」の4つに展開した。

  • 闘争 :生き残りに有利だから重視されてきた「集団性」
  • 競争 :「闘争」に対して、個人が評価されるルールを整備した「個人性」
  • 反闘争:「闘争」に対して、反対すると同時に依存する「個人性」
  • 反競争:「反闘争」の整備であり、「競争」に反対する「集団性」

このような「闘争〜反競争」の図式を提示した理由は、以下を示すことにあった。

  • 「BI」のような「豊かさ(反競争)」の方法は、「正しさ(競争反闘争)」と相反すること
  • 「BI(反競争)」は、旧来の「集団性」である「闘争」と、「豊かさ」において結託していること
  • 競争反闘争」の「個人性」が、「闘争」を抑制する形で機能しているゆえに、これからの「集団性」の再起は、「反競争」という形で行う必要があること

全員に無差別・無条件で支給される「BI」は、「人権」や「政治的正しさ」を重視する文脈で提唱されることの多い政策だ。しかし、そのような「正しさ」に適うものとして「BI」が提示されても、正当性を勝ち取ることが難しいことを指摘したかった。

「BI」は、「正しさ」の過剰に対処する「豊かさ」の方法であるからこそ、「正しさ」と相反するものになってしまうのだ。

本章では、「闘争」を「差別的な協力」、「反競争」を「無差別的な協力」であるとした。両者は、一見して対立する作用に思えるが、「中間(ローカル)」に向かうという点において、どちらも「集団性(豊かさ)」を目指すものになる。

反競争」は、「個人性」の働きによって我々がすでに個人になった前提の上で、「集団性」を再構築しようとする。その点において「反競争」は、「個人性のあとの集団性」という性質を持つ。

このような「反競争」について、本章までは「BI」をその例として挙げてきた。ただ、次の第5章からは、国家による「BI」という大きな規模の「反競争」ではなく、より小さな規模で始めることができる「反競争」の実践的な取り組みについて述べる。

 

第5章 貨幣を否定する生産共同体